「BEHIND BARS – Prison condition in Tibet -」TCHRD発行

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1998年5月 ダプチ刑務所での抗議運動 続報

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TCHRD(チベット人権・民主センター)2000年4月号より抜粋

チベット人権・民主センター(TCHRD)は、98年5月にダプチ刑務所で起った抗議運動について追加情報を入手した。情報によると25歳の尼僧、ツルティム・サンポ(当初、間違ってンガワン・チューキの名で伝えられた)は、98年5月1日と4日のダプチ刑務所での抗議運動に参加した為に殴打され亡くなったということだ。判っているだけでも10人のチベット人が、抗議後に受けた傷がもとで亡くなったという。

以下は、ダプチ刑務所の「新」第3女性区画(以下第3区画)の中で初めて亡命した元囚人、チューイン・クンサンのインタビューである。これまで、ダプチ刑務所で主な抗議運動に参加した囚人の亡命者はいなかったので、大変貴重で重要な証言と言えよう。

ダプチ刑務所元政治囚 チューイン・クンサンのインタビュー

98年5月1日、数人の病気の尼僧を除いて、私たちの区画から国旗掲揚の儀式に参列するため刑務所のグランドに召集されました。政治囚と非政治囚合わせて約1,000人が集まりました。中国旗が掲揚される最中に、ある男性の囚人が空中に独立要求のビラをまき「我がチベットに中国旗を掲げることなどできないぞ」と叫びました。その声に応えて叫ぶ人たちが益々増え、ついにそれは抗議運動に発展してしまいました。刑務所当局と「人民武装警察」の部隊は、私たちを取り囲み、手当たり次第に殴り始めました。第3区画の尼僧全員を含む総勢100人が重傷を負い血を流したのです。式典は混乱し、私たちはただちに各々の区画に連れ戻され、またすぐに殴打されました。当局は無作為に20人の尼僧を独房に監禁し、その他の囚人も別の区画へ監禁したので、刑務所内にはもう場所がないほどでした。それから続けて3時間、ひざまづかされたまま殴られました。監禁された20人の尼僧のうち3人が刑期延長を受け、3ヶ月後、監禁から解放されました。チョーデュップ・ドルマ、チェ・チェ、ジャンチュップの尼僧はそれぞれの刑期を5年、2年、6年に延長されました。彼女たちは暗くて足も伸ばせないような狭い独房に3ヶ月間も監禁されていたのです。3人の尼僧は刑期を延長するために選ばれたのです。というのは刑務所当局が彼女らを嫌っており、抗議運動の最前にいたことでずっと当局に目をつけられていたらしいのです。

残りの17人の尼僧は7ヶ月間監禁されたままでした。彼女たちは定期的に尋問に呼ばれました。その日の夜(5月1日)、私たちはハンガーストライキを始め、刑務所側の扱いに対して抗議するため食器類を差し戻しました。

5月4日の青年の日を祝うために20人の尼僧が国旗掲揚の儀式に連れ出されました。その時、僧たちが独立要求のスローガンを叫び始め、他の女性区画(旧第3区画とも呼ばれる)の尼僧たちは、自分たちのいる監房からその抗議運動を見ることが出来たので、そこから参加したのです。つまり、彼女らは監房から叫び、窓ガラスを壊し始めました。しかし、その抗議も容赦無く握りつぶされました。抗議の間中、私たちのハンガーストライキはまだ続いていました。6日目には倒れて意識を失ったり血を吐いたりする者もでました。その中には容体が悪化して無理やり点滴を受けさせられる尼僧もいました。

7日目に私たちは3回、呼び出され、中国を賞賛する詩を暗記するよう強制されました。私たちは、どうせ罰せられるのだからと拒みました。その日の夜、ディキ・ヤンゾムという尼僧は激しく殴られて監房へ帰ってきました。顔は痣で黒色、青色に変色していました。彼女の話によると、当局が彼女の胸や頬を電気棒で殴ったりそれを膣に挿入したりしたというのです。彼女は喋るのもやっとという状態でしたが、翌日には、私たちといっしょに、朝7時から始まって夜8時迄、外に立たなければなりませんでした。私たちは、足の間と脇の下に新聞を挟み、水を満たしたボールを頭の上にのせることを強制され、バランスをとらなけらばなりませんでした。それで、多くの者が気を失って倒れましたが、誰もお互いを助けることは許されませんでした。少しでも動くと殴られました。食事かトイレに行く時だけ、約10分、中断することが許されました。夜の8時になって、ちっぽけな蒸しパンが配られましたが、少しもお腹が満たされることはありませんでした。そして私たちは尋問に呼ばれ、それは7日間に及びました。5月13日正午頃、白い車が来て、刑務所当局者らが数人の尼僧を連行していきました。その夜、私たちは、ディキが私たちの区画からいなくなっているのに気付いたのです。それから私たちが彼女に会うことはもう2度とありませんでした。私たちが釈放された時、ディキの家族から彼女が亡くなったことを知りました。当局は家族に「自殺」と伝えていました。

事件後、刑務所では、食事の質や量は益々悪化していました。多くの尼僧が病気になりましたが、治療が施されることはありませんでした。抗議後5ヶ月間は、誰も面会を許されなかったのです。